社会人芸人バトルライブ『藤四郎』弐拾ノ陣:銅狐 に出演。
予約した会場近くのレンタルルームに集合。
レンタルルームの入居している雑居ビルの1階に「社員は悪くありませんから」の会見で有名な山一證券の消火器ケースを発見した。
会場へ行き、エントリーフィーの支払いを済ませる。スタッフさんと言葉をかわす。
部屋へ戻り、着替えながらネタの練習。
覚えるのに苦心したネタだったが、一度ライブでやった時あやふやだった反省を活かしなんとか覚えた。それでも今までのネタで一番時間がかかった。
一言一言が、相手のセリフにも自分の一つ前のセリフにも関係のない分断された要素のように感じられる。円周率のように暗記するしかない。
しかも早口が求められ、言いながら確実に次の台詞の冒頭のロードを完了している必要がある。そのレベルに到達するまで時間がかかった。
自分が書いてないからなのかもしれない。
直前のリモートネタ合わせで覚えられないことを小馬鹿にされたことにも腹が立っていた。次からこれくらいの量(2/3)以上、改変されたら改変した人間にボケをやってもらおうと思った。
着替えて再び会場へ。楽屋で主催の方とも言葉をかわす。
スタッフさんとの会話もそうだが「なにか気の利いたことを言わないといけない」と思ったっきり何も喋ることが思いつかない。出番直前の最も緊張している時間帯に他愛のない会話をするというのはなかなかのマルチタスクだ。「楽屋」というのはそういう場所なのかもしれない。
ひろのさんにおしゃべりをお任せして一言目のセリフを暗唱したりしていた。
そもそも楽屋で何を話せばよいのか?前回、中MCで呼ばれたときも思ったが、ライブに行く=ネタをする しか頭にないから、それ以外の用意が何も無い。
普通は楽屋で話すことなんてわざわざ用意しないのだろうが、私は「お笑いをするときに相方以外と接する自分」のパーソナリティが出来上がっていない。「この人とは何を話すべきなんだ」と立ち止まってしまう。「よく思われたい」というよこしまな思いがあるのかもしれない。そんなことを思うなら今後も盾になってもらおうか。
トップバッターで出番を終えた。
ミスなくできたのが嬉しかった。低レベルな目標だが前回同じネタをやったときのリベンジは果たせた。
昼食、近くのとんかつ屋へ。
レンタルスペースへ戻るとアンケート結果がグループラインへ共有されていた。
バトルライブだけあってか、しっかりとフィードバックのコメントが書いてあって非常にありがたかった。
今年はじめの「ロビー」以来、ネタの中でのぎょんの使い方を大きく変えて漫才では2本目になるが、その使い方について「トリオをもっと活かしてほしい」という意見がほとんどだった。
この使い方の一番の問題点が露呈したことになる。
この使い方の漫才の1本目「筋書きのないドラマ」は最後にひろのさんの怒りの矛先がぎょんの最初の発言に帰着する形で回収されていたが、今回の「職業病」は単なるオチ台詞の分担にしかなっていないので物足りないと感じられたのかもしれない。
次回やる予定の漫才も現状では同じフォーマットだったので、急遽フォーマットのパターンについて会議した。
提案したのは3つの大枠の方向性。1つはこのまま突き通す。もう1つは、少なくともぎょんが効果的に機能していた「筋書きのないドラマ」に類似する流れを定番化する。3つ目は、トリオで漫才をやるにあたって当初考えていた、3人が均等に喋る基本のパターンに立ち戻るというもの。3つ目がアンケートに書いてもらったデメリットを根本的に修正する対応になるが、「3人が均等に喋る」というやり方はこれまで模索してウケなかった方法であり、打開策を見つけるのは難しそうである。また、修正工数も大きい。
ひろのさんから「ネタの内容に合わせていいフォーマットをどれでも選べばいいんじゃない?」という発言があり、私はネタを書く側から見たフォーマットというものの立ち位置を分かってない発言だと思い、また、決断をネタ作成者に丸投げするような発言でもあったので反発した。
ネタの構成要素を大きく分けるとフォーマットと内容の2つがあり、フォーマットから先に選択しないと、内容を詰めていくうえで一番制約が少ないフォーマット(つまりここで言えば、2人が大部分を喋って最後に3人目がオチ台詞だけを言うフォーマット)に自然と流れていく。そのため、「ネタの内容に合わせて良いフォーマットをどれでも選べばいい」というのは頓珍漢だと思った。
そこから、次回の漫才のフォーマットを現状のものから、「筋書きのないドラマ」のような流れに変更することにした。
ただ、これは簡単ではない。ひろのさんには書いたネタを改変されることの辛さを考えて欲しかったのでいろいろ思ったことを言わせてもらった。
ネタを書いてない彼らはフォーマットを変えることとネタの内容の中でボケを増やしたり減らしたりすることの区別ができていないようだったので、重大さの違いを理解してもらう必要があると思った。
フォーマットは入れ物である。キャラ付け、喋る配分、喋る順番、3人の中での関係性などパラメータが多く自由度が高い。一方で内容はネタごとに制約がある。より自由なフォーマットに合わせて自由度の低い内容を変えるのはナンセンスだということをわかってほしかった。
フォーマットを作って、そこに内容を流し込むことは比較的容易だが、内容を流し込んだ後のネタのフォーマットを変えると、内容の様々な箇所へ波及してその度に変えていかないといけない。すでにおもしろい言い方と展開をフォーマットに合わせてせっかく固めたのに、そのあとでフォーマットの変更が起こると、ただ”帳尻を合わせる”ためにそのおもしろさの根幹をどんどん変えないといけなくなってくる。その重大さが何も分かってないことに腹がたった。
これは組んでからのネタ合わせの修正でずっと起こっていることだということにこの時点で初めて気づいた。おもしろくなるための変更じゃなくて、帳尻を合わせるためだけの変更をずっとやっている。
文句をたれながらフォーマットの変更とそれに伴う内容の修正を済ませてネタ合わせ。あとは当日までに覚えるだけ。
ところで、我々はこの活動をぎょんの「スターになりたい」発言から始めたのだが、ぎょんは随分前にもうスターを目指してないらしいということが今日わかった。
コロナ禍に私とひろのさんがプロデュースしたYouTubeを辞めた時点でそうで、今回の漫才のパターンになった時もそう思ったらしい。ぎょんの次の目標を探さないといけない。それはぎょんのためではなく、私のネタの作り方の方向性を定めるために。
19時に解散。
ネタの作り方について私はいま、べき論に陥っている。仕事での経験則ではべき論に陥る人の傾向として「同じ仕事にずっと携わっている」というのがあるのだが、今回の私もそうで、ネタを書くというひとところに居すぎている。だからべき論に支配されているのだと自己分析する。
さあ、ここからどうするか。私がどういうマインドに切り替えたら正しく山の頂上に向かっていけるのかを考えないといけない。
今年も負けが続いていることから、もう辞める気持ちは固まりつつあるのだが、そんな中で他の二人には不満が溜まっている。文句ばかりで理想像ばかりで具体案のないやつと、何の知識もなく的はずれな意見しか出さない目標もないやつに見えてきている。こういうのって大抵、終わると決まったら楽しくなるんじゃないのか?YMOの「浮気なぼくら」みたいに。
では今日は最後に、YouTubeを見ていて「これは大事かも」と思ったメモを2つ書き残しておきます。
https://youtu.be/vp1V8lB9Y10?si=8bSfEiH7qLJtXWD8
38:11
「ウケてない時はフリが効いてない」
「フリは説明の時間だと思ってる?漫才始まってるよ?」
https://youtu.be/_jhhSUbcoA4?si=Ir5drkvNv0cViJnC
31:44
「ネタ作るの苦じゃないって言ってる人、大概おもんない」